珍寺的篠栗霊場巡り

番外霊場 桐の木谷子安観音



さてお次は番外霊場である桐の木谷子安観音

何度か道に迷った挙句、見えてきたのがこの赤い階段。



子安観音のノボリがある。うむ。間違いない。

     

山の斜面に立てられた観音堂は簡素な造りで、安普請の民家っぽい感じ(失礼!)がしたのでやや期待薄。


しかし、中に入ると…




すっ、すみませんでした!


中には特濃の信仰空間が広がっていたのである。


    


祭壇の正面と左右に折り重なるように積まれた大量の人形。

その津波のような大迫力に圧倒されまくり。

そもそも本尊すら見えないじゃないか。これでは何に対して参拝したらいいのかすらわからない。

キューピーちゃんに手を合わせるのもナンだしなー。


聞けば安産、子宝祈願の観音堂だとのこと。



ここで皆さんにチョット質問させていただく。



↑コレ見て子宝とか安産祈願とか連想できますか?


私はこの光景を見た瞬間、水子供養としか思えなかった。



子宝祈願とか安産祈願ってどっちかというとポジティブな祈願じゃないっすか。

それが如何であろう、このアンダーな空気。チョットこれは…

赤ちゃんが欲しいから赤ちゃんの人形を奉納するの!という気持ちも判らないでもないが、ホラ、この人形奉納って水子供養の方が先にやっちゃってるじゃないっすか。どうしてもそっち連想しちゃいますよねえ…



ただ、このように伝統的な信仰形態が積極的に変化している点は大いに着目すべきであろう。



そもそも日本の民間信仰の奉納物にはある種の決まり事が存在する。それは祈願内容を直截的にではなく、ワンクッションおいた形で表現するというルール。例えばイボ取りだったらタコの絵馬とか痛み取りだったら釘抜き奉納とか駄洒落レベルの語呂合わせや無茶な隠喩などによって祈願内容を直接表すのを避ける傾向がある。例えば昨今流行の「キットカット」が「きっと勝つ」の語呂あわせで受験のお守りになる、という図式も実は伝統的な民間信仰のロジックに合致するものなのだ。

子宝祈願にしてもざくろや犬の描かれた絵馬、底の抜けた柄杓等々たくさんのパターンがあるのだ。

それらの伝統的なメタファー的奉納物を無視して、直截的な赤ちゃんの人形を奉納するということは余程願う気持ちが強かったのだろう。

伝統的に継承される奉納習俗だが、ある局面においては新しい奉納表現に転換する可能性があるのだ。

さまざまな信仰が独自の変化を遂げる民間信仰の壮大なる実験場である篠栗の霊場ならではの現象と見ていいかもしれない。








    

お堂の裏手にはやや棄てられた感を醸し出している仏像だまりが。

歴史の堆積が感じられると同時に先ほどの積み上げられた赤ちゃん人形が脳裏を過ぎる。


人形に覆い隠されてしまった本尊、打ち棄てられたような神仏…


神(仏)の不在とそれに代わって浮かび上がる、奉納者が主権を持つ人民民主主義的信仰の誕生を多いに予見させてくれる。





仏教や伝統的民間信仰のルールに固執せず、いやむしろ積極的に新しい習俗を作り出すスタイルは個人的な信仰、言い換えれば他者と価値感をあまりリンクする必要のないきわめて現代的な信仰を生み出しつつある。




例えばスピリチュアルなんとかやらパワーなんとかやら…さまざまな形のミーイズム的「新しい信仰」が発生している今の「気分」の萌芽をこの小さな観音堂の中に見るのだ。




観音堂から坂を上ると55番桐の木谷大日堂がある。



特筆すべき事は一切ナッシング!でした。





ところで。

子安観音にあったチラシ、というか説明書きによると

最近、当御堂に似せた物がありますのでくれぐれも御注意願います

との注意書きが。

当御堂に似せた物かぁ…ということはやはりここ同様人形がゴリガン積み状態のお堂がある、ということなのか?


ニセモノはけしからん!けしからんが、それはそれとしてチョット見たかったかも…




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