地蔵寺五百羅漢/徳島県板野町


徳島市の北西に位置する板野町。吉野川の北に位置する町である。

 ここに四国八十八カ所五番札所、地蔵寺がある。

 その地蔵寺の裏手に地蔵寺の奥の院である五百羅漢堂がある。

 

御覧の通り、中央の建物の左右にふたつのお堂があり、その間がL字型の回廊で結ばれており、真上から見ると巨大なコの字型の建築群となっている。

これはかつて江戸本所にあった五百羅漢堂にインスパイアされた建物と考えて良いだろう。

名古屋の大龍寺と並び日本で数少ない本所スタイルの五百羅漢堂なのだ。

 

3つの建物は御覧の通り。

正面から見て左手にあるのが弥勒堂

手前にある小さな建物が拝観料を徴収しているところ。 

ここで拝観券を購入し、羅漢堂に入る。

中央の釈迦堂

弥勒堂から回廊を経由してこの釈迦堂に至る。

中には本尊の釈迦如来像が鎮座している。

釈迦堂を過ぎ、最後に辿り着くのが正面から見て右サイドの大師堂

文字通り弘法大師が祀られているが詳細は追々ということで。

一見左右対称に見えるこの堂宇群、良く見ると左の弥勒堂と違い屋根のカタチが寄せ棟になっている。その辺の事も追々と言う事で。

早速中に入ってみる。

 

入ると正面には弥勒仏がおり、その右側には延々と羅漢像が並んでいて圧巻だ。

実際には堂内は薄暗く、「五百羅漢」と書かれた提灯がボワーっと浮かんでいるような印象だった。

羅漢像は鮮やかな彩色が施された木像で大きさは等身大かチョット大きめ、といったところだろうか。

日本にある五百羅漢としては大型だ。

左手に羅漢像を仰ぎ見ながら歩いていくと通路は右に曲がる。

角を曲がるとその先にも羅漢像がずらりと並んでいて、その先には中央の建物、釈迦堂が見える。

釈迦堂の中央には大きなお釈迦様が鎮座し、左右には文殊、普賢菩薩が脇を固めている。

お釈迦様の右にある金色の柱には「大正十一年四月吉日建立」とある。

実はこの建物、安永4(1775)年に建てられたのだが大正4年の火災でほぼ焼失してしまい、その後再建されたものなのだ。

ちなみに左の柱には当時の衆議院議員の名前が書かれてました。大口奉納者だったのだろうか。

釈迦堂を過ぎても羅漢の群れ。

さっきと同じ画像じゃないですからね。

 

何故か天井から龍の彫刻が垂れ下がっていた。

そして羅漢さんといえばラゴラ尊者。お腹の中がブラックホールのようにぽっかり開いてました・・・

 

 

さらに突き当たりの角を右に曲がると最後の羅漢行列。

その先には大師堂が見えてくる。

しつこいようだがさっきと同じ画像じゃないですから。

同じ場所から中央の釈迦堂を振り返ったところ。

 

ここの羅漢さんはみな立派な眉毛をしてらっしゃる。

派手な色の着物がいかにも羅漢像という感じだ。羅漢像も大正時代にリメイクされたもの。

羅漢さんの提灯行列をたっぷり堪能した後、大師堂に至る。ここが羅漢堂ツアーの終着点だ。

中央に大師像が祭られている。

注目なのはその大師像の周囲、つまり大師像の左右後3方の壁沿いにずらりと八十八カ所の写し本尊が並んでいるのだ。

羅漢を見てバーチャル巡礼。百観音巡りと八十八カ所巡りという違いこそあれ本所羅漢寺と似たような構成になっている。

この部分だけが何となく羅漢堂全体からみてアンバランス気がした。

左右対称を由とする五百羅漢堂において本来左の弥勒堂と右の大師堂は同じボリューム、同じカタチで配置されるはず。

しかしここの羅漢堂はあまりにも左右のお堂の構造が違い過ぎやしませんか?という事なのである。

もっとも、そんなアンバランスな感じも焼肉食べ放題の後にケーキバイキングに繰り出すような勢いが感じられて決して悪くはない。

むしろ現在の弥勒堂〜釈迦堂〜大師堂という参拝順路からいうと、最後にサプライズ!ってな感じで寺院アトラクション的には正解なのかも。

 

とにもかくにも何故そんな左右非対称な羅漢堂が出来上がったのか、その原因を探ってみたいと思う。

 

先にも述べたが現在の五百羅漢堂は大正年間から昭和初期に再建されたもの。

下は文化8(1811)年に刊行された阿波名所図会に描かれている五百羅漢堂。

壁や左右のお堂の接続がかなり省略されているが、基本的に今と同じような構造になっている事がわかる。

右に見えるお堂の中には大師像らしき座像が見えている。

創建当時には五重塔を建てるという豪気な計画もあったそうな。

 

ところでこの羅漢堂の拝観券にはこれとは違った絵が使われている。

あっ!小人料金のチケットだ。別に小学生でチュ〜とかいって拝観した訳じゃないよ。愚息のです。

この拝観券は明治37(1904)年に刊行された大日本名所図録に収録された「四國第五番阿波國五百羅漢地蔵寺之略圖」の一部分を使用している。

ここには左右に同じ宝形型のお堂が建っていて、それぞれ弥勒堂と記されている。

正確には画面左サイドのお堂には「弥勒○座」と記されている(○は判読不明、多分臺か壹だと思う)。

そしてその「弥勒臺(壹?)座」の手前には「八十八カ○堂」(○は判読不明、一に四つ点、蔗の略字か)が別の独立したお堂として建っているではないか。

 

そういえばよ〜く阿波名所図会の絵を見ると、画面左の松の木の間に屋根だけがちょこんと見える。

これが八十八カ所堂なのだろうか。

 

地蔵寺の五百羅漢堂に関してもうひとつ図が残っている。

寛政12(1800)年に刊行された四国遍礼名所図会の地蔵寺の項の五百羅漢堂の部分。

安永4(1775)年に竣工した建物なので築二十数年目の姿ということになろうか。

やっぱり画面左に八十八カ所堂と思しき建物が建っている。

さらにこの五百羅漢堂の説明として「奥院大阿羅漢 中尊釈迦如来 左弥勒菩薩 右大師各大師」と記されている。

 

ここまでの条件から推測するに大正年間に再建された際に八十八カ所堂にあった写し本尊が現在の大師堂の部分に移転したのでは、と考えられる。

 

しかし、ここでもうひとつ重要な条件を加えてみる。

日本すきま漫遊記のへりおすさんによると何とこの大師堂だけが焼失を免れたそうだ(※)。

そうなると今度は180度逆の可能性も考えられる。

大師堂自体には最初から八十八カ所の写し本尊が祭られており、逆に弥勒堂の方が大師堂と同じようなダブル巡礼構造だったのかもしれない。

しかしそれでは辻褄の合わない事も発生する。

かつてあった八十八カ所堂の写し本尊はどこに行ったのか?

また弥勒堂にはどんな仏像を並べたのか、ひょっとして百観音でも並んでいたのだろうか?

様々な疑問点が連続噴射して夜も眠れなくなっちゃいます・・・

 

まあ、やっぱり大正期に八十八カ所堂の写し本尊が大師堂に移転してきた、と考えるのが一番無難なラインですかね。

 

 

さらに謎なのが、上の3点の絵を見比べると真ん中の釈迦堂の屋根のカタチが全部違う点。

ついでに言うと再建された現在の釈迦堂の屋根も上記3点のものと全く違いますね。

まあ、何となくニュアンスは伝わるからいいんですけど。

 

 

そして最大の疑問、この羅漢堂は本所の羅漢堂と同じように土間と板張りの2系統の通路があったのか、という点だが、現在の建物を見る限りそのような痕跡は全然見つかりませんでした。

ただ、これだけ本所スタイルを踏襲した建物なので、何らかの建築的なギミックはあっていいような気がしてならないのだが(かなり希望的観測)・・・

というよりあって欲しい!

 

そんな事をあれこれ考え、焼失以前の姿を想像しながら改めてここの羅漢堂の事を考えると、一見ミニマルなこの回廊もかなり奥深い迷宮に思えてくるから不思議だ。

 


※五百羅漢堂に関して興味のある方はワンダーJAPAN2号にへりおすさんが詳しく執筆されているのでそちらを御拝読ください(買ってね♡)。 


2006.5.

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