珍寺大道場、たまにはお墓を取り上げたりもします。
これは祖霊崇拝の信仰装置として重要な案件であると同時に、単に私が
お墓大好きだからに他ならないのだが、その辺生暖かい目でご容赦いただけたら幸いである。
そして最初に一言お断りを
今回は長いぞ!
…きっかけは1冊の本だった。
「
葬式 あの世への民俗 須藤功」
私の座右の書とも言うべきこの本の中に気になる写真が載っていたのだ。
それは雪を1m程の高さに四角く積み上げ、そこに火を灯したり穴を開け花を手向けているものだった。
撮影場所は山古志村。
(絵が下手で須藤先生ゴメンナサイ!)
これは何かというと、この地方の「墓」なのだという。
御存じの通り新潟県の山間部は
日本屈指の豪雪地帯である。
春の彼岸には墓参りをするのだが、この地方ではまだまだ墓石が雪の下にある。
そこで
墓の上に雪で仮の墓を作り、そこに墓参をするというのだ。
雪国以外では信じられない話だが、調べてみると新潟県の豪雪地域ではあちこちでこの習俗が見られるという。
すごーく気になったので、行ってみることにした。
最初に訪れたのは2018年の3月。
関東では暖かい日が続いていたが、越後湯沢の駅を降りたら
激寒!しかも雪が降っていた。
嗚呼、春とはいえ越後はまだまだ寒いのね。
ちなみに私は関東平野で生まれ育ったもので、大雪には一切縁がなく、たまに10㎝程度の雪が降ったらその日はコタツから出ない日々を過ごしてきたウツケ者。
もちろん積雪期の新潟県内などスキー以外で近寄ったこともなく、この後も雪の墓を見る以外でこの地方に寄る事はないと思う。多分。
レンタカーを借り、最初の目的地に向かう。
雪国初心者としては道は除雪されていて、レンタカーもスタッドレスだったので、そんなに危ない思いはしなかった、というのが率直な感想。
ただし、除雪されていない道は一切車では入れないのだ。
スミマセン。雪国の方々には「何を当たり前のことを…」と思われていらっしゃるでしょうが、雪のない人間からしたらこんな感想です。
震えつつ向かったのは
十日町市の土倉。
ここに雪の墓があると事前のリサーチで聞いていたのだ。
土倉の共同墓地は小高い丘の上にあり、そこに
雪の墓が並んでいた。
おおおお!カッコいい!
まるで雪の中に立つ七人の侍みたいじゃないか!
…と勝手に盛り上がりつつ墓に近づく。
彼岸なので墓参りをする人達が階段のようなものを造ってくれている。ありがたや、
積雪の状況としてはこんな。
石塔の竿石だけが半分顔を出している程度。
これが例年に比べてどの程度の積雪なのかは判らないが、墓石の前に雪の墓が造られていた。
雪の墓は幅1m程で奥行きは50㎝、高さは50㎝程度。
杉の小枝が刺さっていた。
こちらは椿だろうか。
大抵は杉の小枝が供えられていた。
中には
石塔の基壇部まで掘り進めて墓参しているケースもあった。
相当の労力だったろうに。ご苦労様です。
この日は彼岸の中日(春分の日)の翌日だったので、ほとんどの家が墓参を済ませた状態だったと思われる。
雪国でなければ色とりどりの花を供え、線香を手向けるのだが、ここでは杉枝を雪の墓に刺すだけ。
津々と降る雪と相まってやけに寂しい感じがした。
先程から見栄えしない雪の塊を見せられて「で、何?」と思われる方も多かろう。
わかります。わかります。
私もそうだったんですよ。
でもね。
考えてみて欲しい。
これだけ雪深い場所で自宅の雪かきすら大変な在において
墓参りのためにわざわざ雪の墓を造るという行為の意味を。
よほど深い信仰心というかご先祖様への想いが無ければ中々出来ない事ですぞ。
その執念に似た行為に頭の下がる思いだった。
墓地の一画に小さなお堂があった。
厨子にはご本尊が納められているのだろうが布が被せられており、中を伺うことは出来なかった。
それはいいのだが、ご本尊を隠す布の柄が妙にファンシーだったのが印象的だった。
雪の墓を探す旅は続く。
次に訪れたのは
十日町市葎沢。清津川にほど近い墓地だ。
残念ながらここは雪が深くなく、ほぼ全ての墓が露出した状態だった。
同じ地域とはいえ地形や標高、陽当たりによって積雪状態が違うのだろう。
次に訪れたのは十日町の角間辺りだろうか。
偶然見つけた墓地に雪の墓があった。
ここもやはり杉の小枝が刺さっている状態だった。
段々雪に慣れてきて、調子に乗ってウロウロ歩き回っていたら
ズボっと半身が雪にハマってしまった。
やはり足跡がない所には近寄らない方が無難なようだ。
雪が激しくなってきた。
津南町に入る。
ここもまた豪雪地帯として有名だ。
中心部は比較的積雪は少ない。
従って雪かきをして墓石を丸ごと露出させることが出来るので、雪の墓はない。
しかし少し山間部に入ると雪の墓が現れる。
十日町では四角い塊のような形状のものが多かったが、津南では
かまくらのような形状が多く見られる。
真ん中を少し窪ませてそこに線香を手向けるようだ。
それにしても墓を掘り起こす作業は大変だろう。
比較的広い霊園のような近代的な墓地。
そんなところでも
ドーム型の雪の墓があった。
こちらは比較的堅牢なタイプ。
自分の家の墓が判るように竹竿を刺してある所も結構多かった。
雪を搔いて墓石を露出させてもそこに至るまでの階段なども雪で作らなければ墓参りが出来ない。
雪の階段などの作り方もきちんとしており、やはり
雪国の人の雪かきスキルは高いなあ、と変なところで感心した。
これもドーム型。
溶けたのか、新しい雪が降り積もったのか判らないが、不安定な形状のものが多かった。
津南町外丸丁の墓地。
ここも比較的規模の大きい墓地。
他は樒や杉の葉だけが刺さっているだけのところが多かったが、ここは色とりどりの花が手向けられていた。
単純に近所に花屋があるとかそういう事なのか。
もちろん雪に埋まったままの墓石もある。
墓地の一画に小さな小屋があった。
中にはお地蔵さんが祀られていた。
これは葬式の野辺送りの際に使ってた竜頭だろう。
六地蔵も半分は雪に埋まっていた。
この習俗の担い手はいるのだろうか?
こちらは外丸丙の墓地。
背後は信濃川、その向こうは急な崖になっている。
信濃川から更に北上し、十日町市の松之山エリアに入る。
十日町市松之山下鰕池の墓地。
この辺りもかなり雪深い。
このようにビニールシートで覆っている石塔をよく見た。
石塔が汚れないように、という意味合いなのか。
この辺りもドーム型の雪の墓が多い。
掘るのも雪の墓も放棄したパターン。
チョコンと露出した石塔の頭の周辺に椿の枝や花が刺してあった。
こちらは掘り出しプラス雪の墓のハイブリッドパターン。
花筒などを雪で作ってある。
松之山天水越。
こうしてみると雪に埋まったままの墓が多いことが判る。
これは小さいが三段の石塔を模したものなのだろうか。
かつては三段や二段の石塔型の雪の墓が多かったという。
しかも石塔が小さい家ほど雪の墓は大きく作るという笑い話もあった。
これは角型。
これも二段になっている。やはり石塔を模したものなのだろうか。
寺の敷地内にある墓地。
木の下だからか、積雪が少ないので自然に墓石が露出していた。
お寺も冬の間は近寄れなさそう。
マリア観音参拝所とあった。
気になったが、入口が板で塞がれていて中の様子は判らなかった。
松之山天水島。
道路を挟んで両サイドに墓地がある。
道路の近くは雪がないのだが、道から離れると雪が深い。
ズボズボ雪にはまりながらお墓を見て回る。
辛うじて石塔の天辺だけ露出させて墓参している。
ここは完全に埋まっているケース。
十日町市千年。この辺りでは珍しく新規分譲のような家が並んでいる。
かまくら型の雪の墓。
これは二段の石塔型のようだ。
モノクロームな風景の中、オレンジ色の花が目立っていた。
墓を掘り起こしている人がいたのでしばし見学させてもらう。
この日は彼岸の中日(春分の日)の前日だったが、「遅くなってしまって…」と申し訳なさそう。
それでも雪を掘る手際はいい。流石です。
埋まったままの墓。
雪の墓。
同じ場所でも色々な方法で墓参をしているのが面白かった。
同じく千年の墓地。
何よりそこまでして墓参りをしたい!という強い意志が感じられた。
何というか
雪国の意地のようなものを感じたのであった。
さて。
翌年の春。
またしてもやってきました。新潟に。
前回は十日町から津南にかけて雪の墓調査を行った訳だが、そもそも最初のきっかけになった山古志村の雪の墓を見てないじゃないか、という反省を踏まえて山古志から小千谷辺りの墓を見て回ることにした。
前回の訪問時は雪交じりで寒かったが、今回は見事な晴模様。
しかし、積雪量はあまり多くないようだ。
山古志村のやや標高の高い辺りでもこんな感じ。
雪の墓どころか雪かきすらせずに墓参りできる状態だ。
まあ、墓参する人にとっては雪かきしないで済むのだから喜ばしいことなのは重々承知しているが、雪の墓調査隊(?)としては何ともかんとも。
それでも白銀の世界を見るだけでも中々爽快だ。
途中、山古志の物産館的なところに地元の人達が集っていたので聞き込みをするも、今は山古志では雪の墓は作っていないらしい。
さらに偶然にも地元のお寺の副住職がいらっしゃり、曰く山古志ではそもそも春彼岸は墓参りすらしないのだという。
その代わりお寺の本堂に集まって法話を聞いたりするのだという。
地元のお寺の人が言うのだから間違いあるまい。ここに山古志には今は雪の墓はない、という結論を得る。
折角山古志に来たのだから名物の中山隧道を見学していこう。
入口付近はコンクリートで仕上げられており、近代的なトンネルっぽい。
竣工当時の写真や記録映画のポスター。
先に進むと手掘りトンネルの迫力におののく。
コレを見ていたら、そりゃあ墓石くらい雪から掘り起こすわなあ、と思ってしまう。凄い。
棚田が雪に縁取られ実に美しい。
この辺りでは錦鯉をこういう棚田で育てると聞いたことがある。
その後山古志から小千谷まで墓地を見てみるものの雪の墓は確認できず。
信濃川と魚野川の分岐点まで来た。
というわけで気を取り直して、急遽再び去年訪れた十日町、津南方面に向かう。
去年行けなかった墓地や去年雪の墓があった墓地を再訪することにした。
まずは
津南町上郷上田中の墓地へ。
ちなみに今回の雪の墓調査においては
新兵器であるカンジキを導入した。
これさえあれば前回の「半身ズボッ!}という惨劇が飛躍的に少なくなるはずである。
この辺りは前年よりも積雪が多いようだ。
ひとくちに新潟、といっても一律に積雪状況が同じわけではなく、場所によって積雪が多かったり少なかったりまちまちなのだ、という事が良く判る。
雪の墓発見。
カンジキを履いているので安心して墓地を歩き回れる。いいぞいいぞ。
天気が良いから雪の墓も若干溶けてしまったようだ。
積雪が少ない場所はキッチリ掘り出す。
今回はあまり多くの雪の墓が見られなかったが、毎年確実に雪の墓が作られているのが確認出来てよかったよ。
途中、見かけたお堂。
中にはお椀が沢山架けられていた。
お椀を奉納するのは東北地方などでもよく見られる習俗だ。
天井からくくり猿のようなものがぶら下がっていた。
チョット岡本太郎っぽくもある。
白羽毛観音というのか。
東郷平八郎元帥。
そしてなぜか西郷どん。
西郷隆盛は戊辰戦争の折、新潟に滞在していた事があるそうな。
さてさて。
時は2021年、再び
雪の墓調査隊は新潟にやって来たのであった。
とはいえコロナ禍でもあり、なるべく地元の方々とは接触しないよう、そろーりそろりの調査であった。
結局ほとんど人には会わなかったけど。
前年はコロナ禍もさることながら積雪が少なかったという単純な理由で調査を見送った。
で、今回のメインミッションは雪の墓多発地帯でお馴染み、
津南町の南部を調査しようというわけ。
津南町は信濃川と並走する国道117号を挟んで南北に分かれている。
前々回は117号線の北部を中心に調査を展開したのだが、今回は南部を調査しようという訳。
最初に訪れたのは前回も訪れた
津南町上郷上田中。
ここは信濃川の北側に位置する。
もりもりあります。
雪の墓。
形状としてはドーム型、ではない。
どちらかと言うと石塔型に近い形状だ。
もちろん墓参可能なまでに掘り進めるケースもある。
広大な墓地なのであちこちでズボッ!っとハマりつつ墓地を見学する。
墓地の入り口には6つの穴が掘られていた。
ひょっとして六地蔵なのだろうか。
この辺りも今年は雪が少ないようだ。
ここ数年しか見ていないが、直感的に、ここ新潟の雪の墓は、基本的に減っているのではないか、と推察できる。
その理由としては…
1;雪の墓を作る、あるいは墓を掘り起こす担い手の
人手不足
2;
降雪自体の減少
3;墓地自体の
高層化
…が考えられる。
具体的に説明すると
1の担い手不足に関してはご存知の通り雪を掘り起こす人材が高齢化により年々減っていくという事。
2は温暖化により純粋に中長期的に積雪量が減った事。
今回の調査であちこち耳にしたのは日本有数の豪雪地帯であっても年を追うごとに積雪量が減っているのだとか。
さらに、コレが意外と決定打なのかな、と思ったのだが、墓自体が高くなっているという点。
コレは説明が必要かもしれない。
この地域に限らず、日本の多くの地域ではかつては土の上に直接石塔を建てていた。
ところが火葬が一般的になってくると、土葬ではなく、焼いた骨つまり骨壺に納めた焼骨を墓に納める事となる。
それが墓石の下に設けられたカロウト(納骨室)なのである。
この納骨室は地下に設けるわけではなく、地面に外柵と共に設置される。
つまり、従来の墓石よりもカロウトや外柵の分だけ30~60cmほど墓地の総高さが高くなるのである。
そのため、ただでさえ減少気味の積雪なのに、石塔の高さがかさ上げされ墓石が完全に埋まってしまうケースが減ってしまったのだ…と思う、多分。
津南町上郷大井平。
このようにかつてはどこの墓も完全に雪の下に埋まってしまっていたのだろう。
だからこそ雪で墓を造る、という習俗が一般的だったのだろう。
春先とはいえ自分のご先祖を参るために自宅の雪掻きもそこそこに深い雪を掻きわけて墓石を誇り起こしたり、雪の墓を作る。
その精神性に痺れるわけです。
津南町上郷宮野原墓地。
車道からやや離れているのでズボッ!となりながらアプローチ。
津南の南側も北側に負けず雪深い。
津南町上郷子種新田の墓地。
緩やかな斜面にある墓地だった。
さらに南を目指す。
津南町谷内の墓地。
積雪は1.5mチョイというところだろうか。
それでも奥の方は墓石が完全に埋没しており、雪の墓が設けられていた。
津南町赤沢。
ここにも雪の墓があった。
石塔が埋没していないのに雪の墓を作ってあるケースもある。
振り向けば雪原が広がる。
雪の下は全て田んぼだ。
信濃川の流れ。
空の青さと雪の白さで眼がチカチカしてくる。
見玉不動尊というお寺に寄り道。
山門に有名な仁王様がいるのだ。
ココの仁王様には自分の身体の悪いところに濡れた紙つぶてを投げ、貼りついたら病が治るという言い伝えがあり、かつては
紙つぶてだらけだったという。
現在は仁王像の前に細かい金網が貼られており、紙つぶてチャレンジする人もいなくなったようだ。
それでも金網に幾つか紙つぶての残骸が引っかかっていた。
除雪されていたのは山門まで。その先は行けなかった。
ついでに映画「ゆれる」のロケ地となった
見倉橋という吊り橋にも行ったが、除雪されておらず渡るどころか近づく事すらできませんでした…
カンジキ履いてても行けないトコロは行けない、という事を身をもって知りました。身をもってな。
ついでに津南町歴史民俗資料館へ。
この地方の信仰的特色としては
釜神が挙げられよう。
木の枝から成る男女一対の神像で、五穀豊穣、子孫繫栄を祈念して祀られる。
子だくさんで貧乏な神様と言われているがそんな神様でいいのか?
しかも離婚して最後は夫が死んでしまうという悲惨なハナシ。
一般的には道祖神の一種と考えてよかろう。
再び雪の墓めぐり。
博物館のすぐ近くにあった墓地。
キッチリ雪の墓がありますね。
ドーム型、というよりピラミッド型に近いかな。
こちらは横長タイプ。
後にある複数の石塔に対応しているものなのだろうか。
中深見の大瀧院墓地。
ここも石塔の頭が辛うじて出ている程度。
雪の墓もあり、掘られているところもあり、ほぼ埋没している墓もあり。
信濃川支流の中津川の近くにある中深見乙の墓地。
雪の墓らしきものはあったが形状がはっきりしない。
物凄い深い所にある石塔が掘られていた。
この執念にはただただ驚くばかりである。
この後、津南町のほぼ最南端の大赤沢まで足を延ばしてみた。
これまでの経験則で南に行けば行くほど雪の墓が多いのでは?という予見めいたものが芽生えたからだ。
しかし行ってみると大赤沢の墓地はほぼ雪に埋まっており、雪の墓も掘られた墓すらなかった。
この集落の先は長野県。どうやら雪の墓の南限を超えてしまったようだ。
これにて4年越しの雪の墓調査はひとまず終了。
想像とはチョット違ったけれど、
墓参りにかける人々の篤い信仰心を目の当たりに出来て大満足である。
この先温暖化、高齢化が進むにつれ雪の墓は減っていくのだろう。
しかし、そんな大きな流れに抗って黙々と雪の墓を作り続ける人々にはただただ頭の下がる思いなのであった。
参考文献;越後妻有の民俗/滝沢秀一