驚異のデカチン神像、チョンボ地蔵を見た後、栃尾に伝わるもう一つの巨根伝説であるほだれ大神に行くことにしたよ。
…ところが手元にあった観光用地図のそれはそれは判りにくい事!
栃尾観光協会に於かれましては地図の改訂を求めたい一方、結果的に栃尾のあちこちを右往左往したゆえ、面白いモノを色々発見できたので、やっぱりそのまんまでいいのかな、とも思ったりして。
てなわけでほだれ大神に到達するまでの迷い道や寄り道で出会った栃尾の不思議なロードサイドゴッドも紹介しますよ。
まずは二日町にある八幡宮。
ここには大量の双体道祖神石像が並んでいる。
傍らに二日町区老人クラブ作成の説明版があるので要約させていただくと…
ここにある17体の道祖神は賽の神とも呼ばれ、全て男女対になっている。
明治40年、神社合併奨励令によって村の入口や辻に点在していた道祖神をここに集めた。
何故このような双体道祖神が多いのか、といえば元々この二日町地区は会津地方との交流があってその道中の安全を祈願したものだという。
石像の制作時期は宝暦以降である。
てな事が書かれていた。
双体道祖神といえば長野県の中信地方が主な分布域かと思うが、この栃尾の地にもこれだけ存在するのだ。
さきほど見たチョンボ地蔵も阿賀町のショウキサマから影響を受けたものだとすれば、そのルーツは会津地方にある、という説が石本敏也氏によって唱えられている。
この栃尾という地は相当会津地方、ひいては東北地方の文化的影響下にある、という事実が徐々に見えてくる。
橋のたもとにあったシンプルな小屋。
オレンジ色の椅子がポツンと置いてあったので、バス停の一人用待合室かと思った。
中を覗いてみたら、その背後には棚がしつらえてあり、石のお地蔵さん(のようなもの)が祭られていた。
栃尾版の辻堂なのだろうか?
ここで気になるのはこのお堂の椅子と棚の関係性。
椅子に座ると棚のお地蔵さんに背中を向ける格好になる。かといってお地蔵さんを参拝するには背もたれの方を向いて座らなければならない。
休憩のために椅子を置いたが空いたスペースがあったのでお地蔵さんを祭ってみたのか?
それとも元々辻堂としてお地蔵さんが祭ってあった祠に休憩スペースとして椅子が置かれたのか?
こういった信仰装置なのかどうかもよく判らないような物件は見ていて飽きないし、何となくほのぼのしていて私は好きです。
栃尾の中心部に程近い刈谷田川の川原に石が積まれていた。
すわ、ここにも男根!?と思ったが、どうも賽の河原の積み石のようだ。
後で調べてみると毎年8月の初旬に早世した子の成仏を願って石を積むのだという。
今にも崩れそうな絶妙なバランスの上に建つ積み石。幼くして亡くなった子供の命のはかなさを象徴しているかのようだ。
訪れたのは8月末、降雨による増水等で積み石は相当崩れたのだろう。数本の積み石だけが寂しそうに建っていた。
そろそろほだれ大神に着くだろう、と目論んだもののいつまで経っても見つからない。
ここか!と思って祠を覗いてみるものの、どうも違うようだ。
足元にも様々な仏像が転がっていた。
更に別の地蔵堂。
ここもほだれ大神ではなかったが、綺麗な飾りが数多く奉納されていた。
壁には小さな手鞠が下がっていた。
手鞠は油揚と並んで栃尾の名物である。
そんなこんなでやっとほだれ大神に着いた。
と思ったら、ほだれ大神謹彫所、とあった。
つまりほだれ大神の巨根を作っている工房のようなものがあるのだろう。
で、少し進むと…
やっとありました。ほだれ大神!
街道のカーブ地点にある巨大な杉の木の基に建つ祠。
明らかにムラの特異点に位置している。つまりこれもまた道祖神、賽の神の一種なのである。
巨木の基には石で出来た珍が。
道祖神と刻まれた石碑も見える。
祠の中を見てみよう。
うわっ!
これが御神体である。
2.2m、600kgの堂々たるシンボル。日本一の木彫り珍だとか。
3月にはこの御神体に初嫁を載せ、担ぐという奇祭「ほだれ祭り」が開催される(2011年は中止)。
見たところ御神体はそんなに古くはなさそう。定期的に作り替えられるのだろうか。
祠の中には何故かさるぼぼが。
そしてここにも双体道祖神が集められていた。
祠の前には一段と立派に黒光りする輩が。
黒御影石できっちり磨きこまれた珍子。
先端の細工にもぬかりはありませんよ。
このほだれ大神とチョンボ地蔵のツインタワー。
さして広くない地域に2つの立派な珍子系道祖神が存在するのは単なる偶然なのか、それとも何か共通点があるのだろうか?
こうなりゃいっそのこと100メートルの巨大コンクリ珍子なんて如何でしょう?先端は展望台&噴水で。
2009.08.
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