行ってみるとさして大きくない寺で、まさかこんなところにホントに巨大大師像があるのか、とさえ思えるようなのんびりとした雰囲気の寺だ。 知らなければ絶対素通りしてしまいそうなその境内の本堂左手にコンクリート造のお堂がある。そこが大師堂である。 中に入ると・・・ ・・・いらっしゃいました。 巨大な大師様の座像が思いがけないスケールで迫って来る。 恵當大弘法大師というお名前だそうで。 高さは3.6メートル。 彩色されているので厳めしい印象はない。むしろキュート。 木像の座像としては日本一だそうです。 ま、最近は17メートルの木彫座像などもあるので「元☆日本一」という肩書きになるかと思うが、ちなみに今年(あ、2001年の事です)国内で私が見た木像座像の中だけでも三位です・・・ しかし天井いっぱいに迫る大師像は3.6メートルという実寸以上に大きく見える。
通常、仏像の大きさのMAXは丈六仏といい、それ以上の大きさの仏像を大仏と呼ぶのだが(大仏基準法)これは仏様の身長が1丈6尺(4.8メートル)あったという伝説にちなんだものである。で、座像の場合、1丈6尺の半分の8尺(2.4メートル)というのが丈六仏の座高である。従って座像の場合、2.4メートル以上の座高があれば大仏とみなされるわけである。ここの恵當大弘法大師像は座高3.6メートル(1丈2尺)仏像ではないがサイズ的には堂々の大仏である。以上、大仏ひとくちメモでした。
台座の左右には厨子に納められた十二の支守り本尊。十二支だが幾つか兼任しているので実際には8つ。
で、背後に廻り込む。 おおおおおおおおっ! 何と大師サマの背中がガバッと割れて人ひとりが入れる位の小部屋があるでは無いか!
確かに大きな仏像などを作るときには胎内仏と称して仏像の内部に小さな仏像をこっそり納めるケースはある。 が、ここのは胎内仏というにはあまりにもあからさま過ぎる。なんと表現したら良いものか。
ここで気になるのはこの大師像の製作年代である。彩色されているので最近造られたようにも見えるが完成は昭和2年のことである。 昭和初期といえば本稿の熱心な読者ならお気付きかと思うが、戦前大仏ブームの時期である。 この時期、群馬の高崎観音、神奈川の大船観音(完成は戦後)、今はなき滋賀のびわこ大仏(護国大仏)や別府大仏等の従来の丈六仏という大仏のスケール感を遥かにこえる大仏大観音が全国にその姿を現した。従来、彫刻物だった仏像が鉄筋コンクリート造という新工法によって多層階の建築物へと変化したのである。 それは同時に仏像の胎内に人が入る事が出来、今まで不可視だった仏の胎内というものが見える(=見せる)モノへと変化していった時代ともいえる。 特にこの時期、聚楽園大仏(東海市)、浄福寺大仏(西尾市)、弘法山大師像(蒲郡市)といった大型大仏が数多く登場した愛知県下では大型大仏=胎内空間という図式が成立していたと考えられる。 従ってこの恵當大弘法大師を製作するにあたってもこのスケールの仏像であれば何らかの胎内へのアプローチをしなければならない、と考えても何ら不思議はない。 だからこそ木彫であるにもかかわらず敢えて背中に隠し小部屋のようなスペースを造ったのではないだろうか。私見ですが。 その後昭和38年にお色直しをして大師堂もそのとき現在のコンクリート製に建て直し現在に至っているそうだ。 背中の仏像は弘法大師ゆかりの香川の善通寺の本尊の阿弥陀様で、以前は8体の十二支守り本尊像が内部に雛壇状に安置されていたそうです。
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