瀬戸内海の青い墓その2/香川県三豊市


粟島から船に乗り、隣の志々島に向かった。

この島は粟島よりもさらに小さな島だ。



船に乗り合わせた島のお婆さんによると
「年寄りしかいない島」だという。現在島の人口は40人程。

船から見える島の様子は斜面に住宅が密集する、絵に描いたような瀬戸内の島の景である。

志々島の港に入る。


すると港の隣にやけに華やかな一画が見えてくる。

 これが志々島の墓地なのだ。

おおお、これは
粟島では壊滅状態だったアノ青い墓ではないか!

 船から降りたら墓地に向かって一直線!
しかし…


どうも様子が違うようだ。

粟島の青い墓は寄棟の、いかにも祠っぽい墓だったが、ここのは家型、
いや、家そのもの。

屋根が切妻棟入タイプ。そし青いペンキ塗り。

軒先から吊るされたスダレ、しかも多くは
青いビニール製のスダレ。

大変失礼だが、
全然お墓っぽくない。あっけらかんとしていて凄くイイじゃないか!


しかも粟島のとは違い、明らかにバリバリの現役稼動状態じゃん!




ズラリと軒を連ねた犬…じゃなくて小屋状の霊屋の数は
軽くこの島の人口を超えている。

生きている人が住んでいるエリアより平らで日当たりも良い好条件の立地だ。

もっとも台風でも来たら波、被りまくりだろうが。

生者と死者があたりまえのように等価で共存している生死観。

死んだら隣の小さな家にお引越し、的な何とも長閑だが、ある意味感動的な光景だった。

こうして目線を低くすると
墓と家の区別も曖昧になってくる。塔婆がだんだん電柱に見えてくる。


この青塗りの屋根、以前は黒塗りだったという。

粟島の青い墓同様、船の塗装に使ったペンキなのだろう。

他所から来島した人が
蜜蜂の巣箱と間違えた事もあったそうだ。その気持ち、分かります。分かります。




人一人がやっと通れるか通れないか、といった程の狭い通路を縫うように墓地の中を歩く。
まるで三丁目の夕日の長屋のミニチュアセットを歩くゴジラの如し。


霊屋の中には位牌、六角塔婆、七日塔婆などが供えられていた。

「瀬戸内海志々島の話」(昭和59年刊)によればこの霊屋は四十九日目に設置されるという。







中には廃屋状態のものもちらほら。しかし全体的には良好な状態である。



この島も粟島同様、両墓制の墓地である。

もっとも現在は土葬ではなく対岸の詫間半島にある火葬場で火葬してその遺骨を埋葬しているのだが、以前の両墓制のスタイルを踏襲している。


それにしても人口40人そこそこの島でこのウメバカの多さは何なのだろう?

墓地の脇に座っていた島の方に伺ったら、志々島ではこの霊屋にず〜っと墓参し続けるのだという。。

しかも傷んだらペンキを塗りなおし、壊れたら新しい霊屋に取り替えると言う。

????…それってウメバカの在り方として変じゃないか?



ここでもう一度両墓制のおさらいを。

一般的に両墓制とは
遺体を埋葬する場所と墓を立てる場所が異なっている事。

遺族は埋葬した場所であるウメバカに一定期間墓参した後、新たに別の場所(マイリバカ)に石塔を建立し、その後はそちらに墓参する。

これが一般的な両墓制。



しかしここ志々島では
埋葬したウメバカが恒久的な墓となっているのだという。

え、じゃあ両墓制でも何でもない、全国どこにでもある普通の単墓制の墓じゃん、といわれてしまえばそれまでだが、そこには深〜い変遷の歴史があるのだ。


島の集落を抜けると山の中腹に利益院というお寺がある。

現在は無住の寺だが、実はその裏手にマイリバカが存在するのだ。


しかし本来墓参のメインになるはずのマイリバカにはほとんど花が供えられていない。

それ以上に草ボーボーで
墓参の痕跡すらない。長年の風雨に傾き倒れている石塔さえある。

島の人の話では以前は石塔を建てていたが、最近はほとんどないそうだ(唯一の例外はウメバカに建った新しい墓)。


つまりこの島は両墓制から単墓制に変容するプロセスを経ている途中なのだ。

しかし、そのプロセスは単純な両墓制から単墓制への移行ではなく両墓制の途中で石塔という概念が消えつつあり、本来仮の墓であった霊屋が石塔の役割を果たし恒久的な墓として認知されるようになった、という
特異な現象なのだ。

このような現象が起こった直接の原因は分からないが、恐らく島の過疎化が大きく関係しているのではなかろうか。


いずれにせよ今現在、志々島では墓制の変遷がリアルタイムで進行しているのだ。

そいうった「習俗の変遷」が目で見て確認できる貴重な場所である事は間違いない。



マイリバカの近くには軍人墓地があった。こちらには造花が手向けられていた。

その不自然なまでの造花の色が印象的だった。



お寺から集落を見下ろす。

そこからも青い墓の群れは目立つ。


海の向こうには弥谷山や瀬戸大橋。

のんびりとした島の風情だが、この過疎の島で青い墓は後世まで残されるのだろうか。


帰りの船から志々島の他の集落を見ると、そこにも青い墓がいくつか見られた。

港近くの墓地ほどの規模はないにせよ確実に青い墓の習俗は島全体に存在している。


いつかまたこの島を訪れたいものだ。


2006.5.
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