名古屋市の東に隣接する日進市。
東名高速と瀬戸道路のジャンクションに程近い所に御嶽山という低い山がある。岩崎御嶽山とも呼ばれる。
その名からもお判りかと思うが、木曾の御嶽山から分霊した信仰の山である。
山の中心には御嶽神社があり、その神社を取り囲むように御嶽山を信仰する講や各団体が独自の遥拝所を設けていて濃密な雰囲気を醸し出している。
正式には何と言うのか判らんのですが、他に呼称が思い浮かばないので遥拝所と呼ばせてもらいます。
御嶽信仰とはもちろん山岳信仰であり、それは真言密教や神道や民間信仰が複雑に混ざり合った混成宗教である。
これは個人的な感想なのだが、御嶽信仰って山岳信仰の中でも特に色々な信仰の混合具合が激しいように思える。
信仰対象の神仏の種類も多いし、コトバは悪いが何でもアリの宗教ヤミ鍋状態に陥っているように思えてならない。
この岩崎の御嶽山自体が木曾の御嶽山を分霊しているのだから、わざわざ各講が独立した遥拝所を作らなくてもよさそうなものだが、実は御嶽信仰というもの自体が各講ごとに構成されていて御嶽信仰全体を統括する団体がない(勿論御嶽教のようなに大きな団体はあるにせよ)という側面があるのだ。
それと同時に愛知県の人は個人霊場が大好き、という点も無視出来ないのだが。
かくして岩崎御嶽山には無数の拝所がひしめいているのだ。
ここで御嶽信仰の歴史とここの岩崎御嶽の関係を少し述べる。
御嶽信仰の歴史を語る上で欠かせないのが18世紀後期に起こった御嶽信仰解放運動である。
御嶽山中興の祖ともいわれる覚明行者によりそれまで禁足地であった木曾の御嶽山が一般信者にも開放されるようになる。
その後、御嶽解放運動の中心人物であった覚明行者や普寛行者の出身地である尾張と武蔵には御嶽山に登る数多くの講や教会が誕生したのである。
そんな中、万延元(1860)年、明心、明寛という二人の行者が夢のお告げにより勧請した岩崎御嶽山は現在でも石碑が大量に奉納されている。ちなみにどういうわけか御嶽信仰の行者さんの名前はみな似ているのでご注意願いたい。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、ココからが本題です。
岩崎御嶽山に一歩足を踏み入れると濃密な雰囲気に圧倒される。
コレはそんな遥拝所がズラリと並ぶエリアの一番手前の遥拝所。
あまり馴染みのない御嶽信仰の神様(神霊というのかな)の名前を刻んだ石碑が所狭しと密集している。
これらの石碑を神霊碑というそうだ。
そんな神霊碑の合間合間にかなり良い感じのコンクリ像が点在している。
一番目立つのは槍を構え、髭を蓄えた人物。猿田彦大神とある。
こげ茶色のコンクリ像、一見怖そうだが良く見ればドングリまなこにポンチ一歩半手前…ん?
これは浅野作品そのものじゃないですか!
と、台座の裏書をチェック
「昭和四十五年十月吉日 祥雲作 ○○○○立之」(○○○○は建立者の氏名)
浅野作品の「物証」発見セリ!
浅野師はこれまで数多くの作品を世に生み出してこられたが銘が残っているものは極めて少ないゆえ貴重な事例だ。
また、隣には刄寿霊神というタイトルの付いた人物像がある。
裏を覗き込んだが銘はなかった。しかしこちらの方が浅野作品っぽいテイストをかもし出していた。
見渡せば周辺にも浅野臭プンプンの素晴らしい作品群が。
これらの像にも残念ながら浅野師の銘は確認できなかったが、昭和40年前後に建てられたものが多い。
ほとんどが浅野作品っぽい出来だったように思えるが、中にはそうでもないものもちらほら混ざっている。
隣にあった講の遥拝所。
ここにはペンキ塗りの弘法大師がトタン張りの祠に納まっていた。
風雨にさらされる事なく安置されているので状態が良い。
表情を見る限りこの大師像も十中八九浅野作品であろう。
同じ遥拝所にあった霊神像。
正直、この辺になると浅野作品としてはあまりにも上手すぎるかな〜、という気がしてならない。
具体的にどこがどう、とも言い難いのだが目の周りの肉の乗せ方とか輪郭の取りかたとか。
浅野センセの作品って最初に丸い顔を作ってそこに目鼻を乗せていく感じなのだが、この老女や先の三人並んでいる行者像などはいわゆる塑像の基本を知っている人、つまり美術教育を受けた彫刻家の仕事に思えてならない。
愛知県下でコンクリ像を見かけたら何でもかんでも浅野作品だ!と決め付けがちだが、決して早まってはいけないのである。
何故ならこのサイトの熱心な読者は御存知であろうが、愛知県には戦前戦後を通じて数々のコンクリ職人が存在していたからである。
鑑定は慎重に、慎重に。
これもチョット上手過ぎるかな〜。でも浅野作品だろうな〜。
先にも述べたが、作品数自体は多いものの銘が記された作品が非常に少ないため、浅野師の作風の振れ幅を確定するのは非常に難しいのだ。
例えば近くにあった↓こんなコンクリ像。
台座のデザインや作風が今まで見てきた浅野作品の系譜とは違うように思える。
しかしそれは単に私が浅野作品の作風をこうだ、と決めてかかっているからかもしれない。
もしかしたら浅野師は私が考える以上に幅広い作風と高等な技術を持っていたのかもしれない。
…って事はないですか?
ここが岩崎御嶽山の中心地、御嶽神社。
石段の両脇には恐ろしいまでの数のノボリが並んでいた。
神社の前は駐車場になっていて、その駐車場の周辺にもたくさんの遥拝所がわんさか密集している。
その中でもひときわ目立つ大きな弘法大師。
弘法大師も山岳信仰には欠かせない信仰対象である。
この大師サマもかなり浅野祥雲チックだと思いませんか?
大師サマの隣にはここの講の講祖様と毘沙門天の像が。
どちらもこげ茶にペイントされたコンクリ像で隣の大弘法同様浅野臭プンプンだ。
毘沙門天の台座の裏を見ると昭和43年に建てられた事がわかる。
そして列挙されている奉安者の名前を見ていると…
っと、出ました!浅野祥雲師の御尊名!
奉安者、とあるが実際には浅野師が出資だけして他のコンクリ造型師が作ったとは考え難い。
つまり浅野師が製作した毘沙門天像と考えてよかろう。
そう思って改めて毘沙門天を見てみると、毘沙門天に踏まれている邪鬼の表情など結構良い感じじゃないですか〜。
駐車場からさらに山を下っていく。
昼尚暗い山中には無数の霊神碑が立ち並んでいる。
霊神碑は三千基はあるという。いったいどうやってこんな足場の悪い場所にこんな大きな石碑を運べたのだろう。
奥へ奥へと分け入っていくとこのまま娑婆には帰れないのでは、と思ってしまうほど浮世離れしているところだ。
それぞれの遥拝所には講の教祖さんだったり開祖さんだったり行者さんだったりするのだろう。
公家さんのような神主さんのような格好のコンクリ像がたくさん立っている。
ちなみに浅野三大聖地のひとつ五色園もここ日進市内にある。
この岩崎御嶽山から2キロほどしか離れていないのだ。
ということはここにあるコンクリ像が全部浅野師の作品であっても決しておかしくはない。
断言は出来ないが、もしそうであれば五色園に匹敵する浅野聖地といえよう。
知名度ゼロだけど。
2007.10.
珍寺大道場 HOME