赤倉霊場/青森県岩木町

津軽平野の中央にそびえる岩木山

その美しい山容は津軽富士とも称され、津軽に暮らす人々にとって物理的にも精神的にも中心を成しているようだ。

そしてその岩木山は信仰の上でも大きなウエイトを占めている。

岩木山信仰といえば岩木山南麓の百沢にある岩木山神社が良く知られている。津軽藩に保護されてきた津軽の総鎮守であり岩木山の表の顔ともいえるところだ。

一方、岩木山の東に赤倉という場所がある。百沢が岩木山の表の顔とすればこの赤倉は岩木山の裏の顔といえよう。

この赤倉という場所はゴミソ、またはカミサマと呼ばれる人達の多くが崇める聖地なのだ(以下カミサマと呼ばせていただく)。

 

ここでカミサマの説明を超簡単にさせてもらう。カミサマとはいわゆる民間巫者の事で、主に御宣諾を生業としている。

青森で民間巫者といえば何といってもイタコが有名だが、カミサマというのはイタコが死者の口寄せ(ホトケオロシ)が主なのに対して天啓というか神からのメッセージを宣託する事(カミオロシ)がメインになっている。

どちらかというとイタコは目が不自由な人の経済的自立のための職業という側面を持ち、徒弟制度が明確化していているが、カミサマは自身の天啓により

自発的に信仰の道を極めようという人達が多いようだ。実際にホトケオロシやカミオロシをしてもらった訳ではないのでなんとも言えないが、イタコは職能的集団で、カミサマはいわゆる拝み屋さんに近い存在のようなイメージがある。

とはいうもののイタコの数が減っている中、ホトケオロシやオシラサマあそばせなど、かつてはイタコが執り行っていた民間宗教行為もカミサマが行なっている場合も多く、イタコとカミサマの職能的区分が難しくなっていて、混然とした状態が進行しているのが実情らしい。

 ちなみにカミサマ達がまとまってひとつの教団を成している訳ではないので御注意を。

そんなカミサマ達の聖地、赤倉。

ここ、赤倉が凄いのは単なる聖地なだけではない。それぞれのカミサマ達が造営した霊堂が隣から隣へと点在しているのである。

ここは国有林なので一般の建物は建てられない。カミサマの霊堂だけが例外的に貸し付けられて建っているのである。

従って赤倉霊場にある建物は全部カミサマの霊堂とその付属施設なのである。

つまり言い換えてみればカミサマ(とその信者)の住む街、カミサマばっかりの街カミサマ専用の街なのである。

ここは観光客がふらりと訪れるようなところではない。カミサマ、あるいはその信者の真剣な修行の場なのだ。正直、私のような部外者がカミサマ度100パーセントの町に用事もなく立ち入るのも如何なものかという思いもあったが、津軽の民間信仰をカラダで知るのにここほど適した場所はないだろうという結論に達して行きました。アタシも真剣なんです。ある意味。

 

 赤倉霊場の手前には大石神社という神社がある。大石神社の手前に赤倉霊場案内略図という看板が立っていたので位置関係を確認する。

大石川を挟んで28軒の霊堂がある。

名称を見てみると神社と称しているところやカミサマの名前やカミサマの本拠地がある地名を冠した「〜堂」というものが多い。番号だけが書かれており何も記載されていないところは現在は使われていない霊堂ということなのだろうか。

大石神社を過ぎてしばらくするといよいよ赤倉霊場があらわれる。

霊場入口付近で一番目立ったのはこの黄色い鳥居の津軽赤倉山神社という石標が立っている霊堂。先程の地図と対応させると繁田むすび講社というところのようだ。繁田といえば稲垣村の繁田に立派な赤倉神社があったが、ここはその繁田の神社の修行場のようなポジションなのだろうか。

ほとんどの霊堂が赤倉大権現、または赤倉大神を祭っており、神道の形式を採用しているが、中には弘法大師や不動明王等も一緒に祭っているところもあり、赤倉信仰が山岳信仰をベースにしているのが伺える。

 

神社の前には三十三観音や弘法大師像があった。神道と仏教を常に分離して考えがちなので奇異に見えるが、ここでは無理なく同居している。というより明治以前はどこもこんな塩梅だったのだろう。それにここではカミサマがそれぞれ仏教や神道のエレメントを再構築していて新たな教義をつくりあげたりしているので仏教と神道が混合していて当たり前なのだ。

 

さらに奥にはこの霊場の中核ともいうべき赤倉山神社が見えてくる。

 この赤倉山神社を建てた人物が工藤むらというお方。

この人物が現在の赤倉霊場の基礎を作ったといっても過言ではない、赤倉のカミサマのゴッドマザー的存在なのだ。

もともと修験の修行場だった赤倉だが、大正あたりからポツポツとカミサマ系の人達が修行に訪れていたようである。

そんな中、工藤も様々な事情から赤倉に修行に来るようになった。そしてある日、夢の中に赤倉様が現れ赤倉に社を定めるようにと天啓を受けたそうな。

で、営林署から現在の土地を借り受け現在の赤倉山神社の前身の霊堂ができあがったということだ。

この地が現在のように霊堂だらけになったのは昭和30〜40年代にかけての時期で、それ以降は新しい霊堂は出来ていない。

 

これが工藤むらの像である。死後ホントの「神」として祀られているそうだ。

ちなみにこの日はひどい雨で遠景は雨で煙るわレンズに雨はかかるわで散々なコンディションだった。

工藤むら像の右上に見える丸いのは雨粒。決して心霊現象じゃあないよ。

柱には龍が巻き付いている。ここは竜神を祀る霊堂も多い。 

さらに先へと進む。数件の霊堂が密集している。霊堂はそれぞれのカミサマが建てているので、いってみれば一軒一軒独立した神社みたいなものなのである。

神社の集合団地みたいである。

 

なぜか相撲取りと行司。しかも津軽お得意の石仏に手拭巻き攻撃。

 

さて、そうこうしている内に大石川を渡り、さらに奥のエリアへと進む。

赤倉山神という額の掛かった霊堂。雨粒御免。この辺の霊堂には人がいなかった。

 

さらに先へと進む。豪雨の中、原生林の中を歩いているとホントにこの先に霊堂があるんだろうか、と不安になってくるが先ほどの地図に描いてあったのを信じて歩く。

途中には雪で押しつぶされたのだろうか、こんな鳥居が。

しばらく歩くとやっと建物が見えてきた。ここが一番奥のエリアのようだ。

視界が開けるとあらびっくり。そこにはかなりの数の霊堂が密集していた。

特にこの霊堂はインパクト強。

くり返すようだが、ここにある建物は全てカミサマ関係の建物である。

人里離れた山中にこうしたカミサマの集落がある事自体、何だかおとぎ話にでも出てきそうなハナシではないか。

最初、カミサマとその信者の集落という事でかなり変わった人達が住んでいるのではなかろうかという不安もあったが、実際そこに住んでいる信者の方と世間話をしてみると皆さんいたって普通〜の人でした。むしろ話好きな人が多かったような気がするのだが、バッキュンバッキュンの津軽弁なので何云ってるかよく判らなかったのが極めて遺憾である。

 

霊堂の脇などには祠があり、覗いてみるとやはりお地蔵さんが着物を着せられて祀られていた。

カミサマの存在というのは津軽という土地にどっしりと根をおろしている印象が強かった。一般的には拝み屋さんとか巫者というと神がかった怖い人が多いんだろうな〜、やっぱ、いきなり「お前の後ろに狐がついているぞよ!活〜!」みたいなノリをイメージしていたのだが、あまりそういったエキセントリックな雰囲気は感じられなかった。いやいや、もっとエキセントリックであっても当方はいっこうに構わない、というか若干歓迎気味なんですけど。

いやいや、いたって普通に見えるけどこの人達だってやるときゃやるんだろう。カミオロシってスイッチオンになっちゃうと結構激しいんでしょ。

そんな激しさが全く感じられないところが逆に深い。

 

こうして見てみると普通の山里なんですけど。

霊堂の隅でカミサマと思しきお婆さんがテレビを見てました・・・

霊堂群の一画に石像が幾つか置いてあった。

 

弘法大師と山の神だそうだ。どちらも手拭、白装束をセットされている。山の神、顔怖いぞ。

さて、奥のエリアも一通り見たので一旦、赤倉山神社まで戻りそこから三重の塔のあるエリアへと向かう。

赤い鳥居に三重の塔。いかにも赤倉らしい組み合わせである。

 

塔は比較的最近のもののようで中を覗くと階段が付いており、上まで登れるようになっていた。

段々雨が激しくなって来たのでこの辺にしましょうか。

 

この赤倉霊場にはたくさんの霊堂があるが、その使われ方は一様ではない。

赤倉にのみ霊堂がある場合とカミサマの本拠地と赤倉の2カ所に霊堂がある場合、また普段は本拠地である里社を中心に活動し、たまに赤倉にくるという奥の院的な位置付けをしているところ、という3パターンに分けられる。

また、現在は法改正のためか新規のカミサマが霊堂を建てる事は出来ないという。

そういう意味では昭和30〜40年代のこの地方のカミサマ信仰を封じ込めた巨大な純粋培養場ともいえる。

そもそもカミサマという存在はその特殊能力から一代限りの職能であるため、簡単に子供が後を次ぐという訳にもいかないようだ。

中には跡継ぎに能力がないためカミサマ稼業をやめて他の宗教団体に衣替えしたり空家などになってしまっているところもあるようだ。

赤倉霊場の霊堂ラッシュから40年。カミサマの世代交代はどのようになされていくのであろうか。

この先、このカミサマの街はどうなっていくのだろうか。


2004.6.

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