君はおぼえて〜いる〜かしら〜、あの〜白い弁天〜(弁天〜)
…と、相も変わらず若い衆を置き去りにした替え歌で失礼四万十川。
事の起こりは和歌山県を代表するコンクリ仏パラダイス、
吹山弁財天院であった。
ご存じない方は
こちらをご覧あれ。
精緻な作風と荒くれたシチュエーションのギャップが織り成す極上の珍寺である風吹山弁財天院。
そのコンクリ仏の製作を手がけたのは和歌山県在住の彫刻家、
角田蘇風氏であることまではその際に触れたので敢えて繰り返さない。
その後調べてみると、角田氏が和歌山県内に数々の作品を残していることが判明したのだ。
風吹山の弁財天のようなキテレツなコンクリ仏がまだあるかも知れない、との思いから和歌山県内に点在する角田氏の手によるコンクリ像を訪探しよう、と相成ったのである。
題して
角田蘇風伝説。
最初に向かったのは県北部のかつらぎ町。
ここに角田氏が手がけた大作があるのだ。
町の中心部に程近い公園の中ににそびえるお地蔵さんである。
厳密には
平和祈念像といい、お地蔵さんではない。
というのもこの像の製作に関して歴代の町長が深く関わっており、政教分離の建前上、お地蔵さんと呼んではいけないようなのだ。
そういえば昭和の頃ってこういうのたまにありましたね。明らかに観音サマなのに平和の像とか言い張ってるケース。
…といった大人の事情はさておき、誰がどう見てもお地蔵さんなのでお地蔵さん扱いさせていただくが、このサイズのコンクリ仏にしては珍しく金属製の光背が付いている。
さらに杓杖の先端も金属製。
昭和36年建立にしてはかなり出来のいいお地蔵さんだ。
角田氏の卓越した技術が伺える。
この大地蔵像の製作は
保田龍門氏の指導により角田蘇風氏が製作して井端組が施工したのだという。
保田龍門氏とはここかつらぎ町の隣、紀の川市出身の彫刻家で、大正時代の彫刻界の重鎮と言っていい芸術家だ。
代表作としては名古屋市の平和公園にある平和堂の壁面のレリーフと四隅の立像である。
また、和歌山県を代表する奇人にして偉人
南方熊楠のデスマスクを作成したのもこの保田氏である。
ここで保田氏と角田氏の立場を整理すると保田氏は地元出身の著名彫刻家、角田氏は地元で活躍するローカル彫刻家、ということになろう。
ちなみに名古屋市の平和公園にある平和堂の堂内には浅野祥雲師の手による歴代名古屋市長の胸像があるという。
(参照;
コンクリート魂浅野祥雲大全;大竹敏之著)
これは全くの偶然だろうが、
愛知のコンクリ仏番長と和歌山のコンクリ仏番長の師匠が奇しくも同じ建物の内と外で競演していたということになる。
で、平和祈念像に話を戻しますよ。
どことなく笑い顔のお地蔵さん、風吹山にあったお地蔵さんによく似てますね。
敷地内には
抽象的なモニュメントも設置されている。
コレだけじゃ平和祈念とか言われてもあまりピンとこないでしょ。
やっぱ世界平和祈念とか万霊慰霊といった場合、お地蔵さんのような具体的な姿の方が腑に落ちるわけですよ。
お地蔵さんは高さ18m、台座には世界各国の聖域の石を納めているという。
そういえば
沖縄にある平和祈念像も世界中の石を集めてあったりと共通点が多く、興味深い。
心なしか隣にあるモニュメントも沖縄平和祈念堂に似てるし。
お地蔵さんの下の建物は平和祈念館といい、中には仏壇のようなものがあった。
平和記念館前には場違いな大理石の狛犬が。昭和62年に設置されたものだ。
後ろから見ると光背はお地蔵さんの後頭部に直接ぶっ刺さっている。
何かスナイパーのスコープみたいですね。
お地蔵さんの背後には紀ノ川が流れている。
お次は紀ノ川を下って和歌山市に移動しましょう。
…というわけでやってきました和歌山市。
和歌山城のお堀端、市児童女性会館前に角田氏の手によるコンクリ像がある。
先ほどの平和祈念像とは打って変わって小さな作品。
しかも
半ズボンの少年像だ。
新聞少年だな。
コレまで仏像しか見てこなかったわけだが、こうして現代的な塑像も手がける作家であることがわかった。
台座には当時の県知事の銘が。
裏側には当時の市長の筆による新聞配達少年の勤労意欲を称える文が記されている。
台座上部には風吹山弁才天院でも見られた波型のテラコッタレリーフ。
そして蘇風の銘も刻まれている。
和歌山の街に新聞を配ろうと第一歩を踏み出さんとしているぞ。
角田氏が得意としていたであろう仏像とは違った題材だけに若干の違和感というか
こなれてない感が出ていたように思えましたよ。
新聞少年の次は和歌山城内に入る。
広大な城内の一画、ここにも角田作品があるのだ。
それは虎の像だという。
紀州徳川家の居城である和歌山城はその姿からしばしば伏せた虎に喩えられたという。
それにちなんでかつては金属製の伏虎像があったのだというが、戦時中の金属供出によって現在は二代目のコンクリ伏虎像が角田氏の手によって製作されたと言うわけ。
これがその
伏虎像である。
表面にうっすら塗装を施しているようだが、パッと見ほぼコンクリートの質感そのまま。
ヒゲを敢えて顔の表面に貼り付いたように表現しているのが独特だ。
全体のプロポーションや表情の精悍さ、体毛のモフモフ感などコンクリ塑像としては
かなり高い技術によって作られていることが伺える。
台座には角田蘇風の銘が。
昭和34年の作。
ちなみに樟守神社とは城内にある樟の木を祀る小さな神社のことだ。
象嵌の眼をじーっと見ていると何だか動きそうな迫力である。
…そういえば何だか獣の匂いがどこからともなく近づいているような気配がするぞ。
何となく獣の呻きが聞こえなくもないような…
こ、これはもしや!!!
…と振り返るとポニーちゃんが歩いてました…。
何でお城にポニーがいるんだよ…
というわけで角田作品を訪ねる旅はひとまず終了〜。
ここで何らかの結論めいたものを述べなければならないのだろう。
でもなー。
上記の3点のモチーフがあまりにもかけ離れてて角田作品とは何かを述べるまでには全然至らないっすね。
だって地蔵と子供と虎ですよ。共通点薄すぎ!
このまま終わるのも切な過ぎるのでさらに調べてみたら、以前訪れた
高野山の奥の院にあるファンキーな六地蔵塔が角田作品であることが判明(※1)。
キテレツなお墓や慰霊碑が居並ぶ高野山の奥の院の中でも異彩を放っていた塔がまさか角田作品だったとは。
今思い返してみると、小石をあしらった台座、曲線的なレリーフ波型の装飾、そしてなにより端正なお地蔵さんの姿は風吹山弁才天院やかつらぎ町の平和祈念像によく似ているではないか。
さらにさらに関連のサイトを探してみると、
とんでもない画像が出てきた!
角田氏のアトリエである。

(元サイト※2が消えていたので記憶を元に再現してみました)
3階建ての建物の屋上に毘沙門天の顔と手が付いているのだっ!
壁面には天女のレリーフ。
まるで建物全体がロボ毘沙門天みたい。
コレ、ウルトラ超絶スーパーカッコ良くないですか?
(絵が下手くそだからよく判んねえよ!という御意見は即時却下させて頂きます)
風吹山のダルマさん↓を髣髴とさせる建物と顔の強引なまでの競演だ。
角田氏は晩年は東京に居を移し、昭和52年に79才で亡くなっているので、恐らくこのアトリエもとうの昔に消滅しているのだろう。
でもね。
今でも夢想するのですよ。
このアトリエが誰にも知られずひっそりと和歌山のどこかに廃墟となって存在し続けている姿を。
もし本当に現存していたら明日にでも見に行きたい!
想像しただけで血がたぎりまくりの
珍寺的重要文化財なのである。
もしこの建物についてご存知の方がいらっしゃったら是非
ご一報ください!情報お待ちしております!
※1…高野山霊宝館刊「霊宝館だより」83号よもやま話vol.12「六地蔵尊燈籠塔とその作者角田蘇風」参照
※2…角田氏の作品や生前の姿を記録されていたサイトがあったのだが、確認してみたらこのサイトが消えていた。サイト製作者様あるいは事情をご存知の方、ご一報いただけたら幸いです。