宮崎県の中部、高鍋町。海に面したのどかな町だ。 これといって特徴がある町でもない高鍋町だが、珍寺野郎には見過ごす事の出来ない超A級珍寺が居を構えている。 それが高鍋大師である。 ロケーションは小高い丘の上にあり、近くを通る国道からもその異様な石像群は良く見える。それはまるで巨大なトーテムポールが立ち並んでいるかのような光景で、かなり目立つ。しかし国道から良く見える割には実際のアプローチは結構難しい。周辺は持田古墳群と呼ばれ、のどかな田園地帯にポツポツと土饅頭のような塚がある。その古墳群の一画に物凄くわかりにくい細い道があり、そこから山に入っていき高鍋大師へと向かうのだ。 持田古墳群が目当ての考古学マニアの方が見たら間違いなく顔をしかめるであろうその寺、しかしアタシにとっちゃ「高鍋大師」と書いて「ちんでらだいどうじょう」と読んでもいい位、私の理想をかなりの高レベルで具現化してくれている、まさにこのサイトのためにあるのではないかと思える程の極上の珍寺なのだ。 細い一本道を登っていき、最初に現れるのは賽の河原。 積み石がいくつか点在するこの賽の河原には早くもオリジナリティ溢れる石像が点在している。 右から赤鬼、地蔵である。
この高鍋大師は岩岡保吉という人物がその半生をかけて製作した奇妙キテレツな石像が並ぶ超俺様テーマパークなのだ。
切り出された四角い原石をそのまま積んであるかのような胴体。その上に微妙な顔つきの頭部を乗せ、直角or直線で構成されている数本の手を両サイドに取り付ける。
全体的なプロポーションだけでなく、細かいパーツもかなり独自の路線を突き進んでいる。直角と直線で構成された手などをみていると、ある意味、プロの仏師や彫刻家が一番やっちゃいけない事を次から次へと繰り出しているような気がする。
新四国八十八カ所を完成したのが昭和8年。参拝者も大勢訪れたそうだ。そして高鍋大師の優しいお爺ちゃん住職として参拝者相手に縁側で茶飲み話に花を咲かせたそうな。メデタシメデタシ・・・ と、普通はこの辺でいいハナシとして終わるところだが、そこで終わらないのが岩岡氏の凄いところである。
次に岩岡氏はぎょうばと呼ばれる地下参拝洞を掘り始めた。昭和16年より5年間掘り続けた洞窟の全長は65メートル。戦時下ゆえもしかしたら避難壕のつもりで掘ったのかも知れない。ひょっとしたら避難壕を掘っていて段々テンションが上がって来た結果、参拝洞というカタチになってしまったのかも知れない。内部には自作の三十三仏が置かれたという。嗚呼、素晴らしきかな、何でも自分で作っちゃうセルフビルド人生。ぎょうばの完成後、稼業を引退し僧職に専念。この辺が岩岡氏の人生のターニングポイントである。氏は一風変わった工法で、昭和52年、89才で鬼籍に入るまでの数十年間、数々の奇妙なな石像を次々と生み出すのであった。
何だか電柱みたいだなあ、と思っていたら、ホントに碍子が付いてました。これもまた歯を見せて笑っているのだろうか。腹部には「明治百年 むえん こ中 まもれ 昭和四十三年 岩岡弘覚 五月五日 八十才のさく」とある。八十才といえば比較的晩年の円熟期の作品といっていいだろう。岩岡ワールドの円熟期の作品である。高さは7.5メートル。 足元には神様らしき石像があるので神道系の神様なのだろう。天照大神か? 鳥居を潜った先には真っ赤に塗られたブロック積みの小屋がある。中も真っ赤で正面の祭壇には「けもの一サい」と白抜きで書かれている。獣一切という意味なのだろうか。このコトバが視覚的にもかなり効いている。お手製の狐があるところを見ると稲荷明神なのだろう。 鳥居エリアの端には木々に隠れるように「スサノオノミコト」が立っている。高さは7メートル。これは境内の巨大石像の中でも比較的シンプルな部類に入る。切り出し原石を五段積み重ねた上に頭部が乗っている像で刀を差している。ついでに倒壊の危険でもあったのだろうか背中に鉄の支え棒も差してある。先程の電柱みたいな像と同じく昭和43年の作。顎髭にオールバックなのだろうか。かなり濃い顔だちである。でも子供の描くライオンの絵みたいだぞ。 その後ろには大師像と巨大な五鈷杵が。
さて。 以上が賽の河原と本堂右側の庭様子である。これで高鍋大師の約半分をまわった事になる(実際にはこの寺がある山のふもとに八十八ケ所のミニ霊場があるがそこは道が途絶えていたので勘弁してね)。残り半分の本堂周辺と本堂前の庭園は長くなりそうなのでページを改める事にしましょうか。 高鍋大師その2へGO!
珍寺大道場 HOME