天如塔/長崎県島原市




島原の街に奇妙な塔がある。しかしその存在を知る者は意外と少ない。



かくいう私もこれまでに何度か島原に行ったことはあったが、この塔の存在にはまるで気付かなかった。



いや、もしかしたら見えていたのかも知れない。しかしたとえ見えていたとしても精々灯台か消防署の物見台でしょ、程度の認識だったであろう。

しかし珍寺史学的には天地が引っくり返るくらい衝撃的な物件であったのだ。


塔は
理性院大師堂というお寺の境内にある。

寺は周囲よりやや高いところにあって、近所の人達が気軽に散歩に訪れるような雰囲気だ。

境内にあった興教大師の石像。




燃えたのだろうか、真っ黒な仏像と周辺のカラフルな仏像との対比が印象的だ。




キューピーちゃんがみっしり並んでいるお堂もあった。
まあ、水子供養という事で奉納しているのだろうが、
キューピーちゃんの背中に名前が書かれていたのには少しおどろいた。

   


で、境内の一番高いところに塔が建っている。

コレは灯台なんかじゃなくれっきとした仏塔なのだ。





白いペンキ塗りに展望台。まるっきり灯台みたいだが、
天如塔という立派な名前が付いてるんです。




天如塔は高さ約11メートル。アンテナ、じゃなくて宝輪を含めると15メートル近くという堂々たる規模の塔である。

完成は明治42(1909)年というからおよそ1世紀前の建物、という事になる




さて、この塔のどこが衝撃的なのか…

それはね…

それはね…




内部に二重螺旋階段を持つ建物なんです。

つまり
さざえ堂かも、ということですよ!


さざえ堂とはなんじゃい、という方はこちらを御覧ください)


さざえ堂といえば幕末から明治期に江戸を中心とした東日本で流行した仏堂形式だが、西日本にさざえ堂があるという話は聞いた事がない。
極めて珍しいケースと言わざるを得ない。



で、気になる内部は…というと残念ながら非公開、というか御覧の通り所々崩壊しちゃってる。

なんでも数年前の台風でかなりのダメージを受けたそうで現在内部に入ることは出来ないそうだ。残念無念。


    

外壁の鉄板は剥がれ落ち、灯り採りの小窓からは鳩が出たり入ったり。



恐らく現在は
巨大な鳩小屋と化してしまったのだろう。

最上階を見ると屋根は崩落し、屋内から空が見えている状態になっているのが外からでもわかる。

あまりにも痛々しい姿に心痛めながらも、あと数年早く来ていれば中に入れたかも…というスケベ心が8割方でした。




せめて入口からでも内部の様子を拝見。と、曇りに曇ったガラスを拭き中を覗いてみる。



入口の扉は観音開きになっているが右と左の扉それぞれ別の参拝路になっている。


さざえ堂マナーに従って勝手に
左側の扉を入口とさせていただく。

中を覗くといきなり湾曲した壁が目の前に迫ってくる。その奥には不動明王らしき仏像がかろうじて見える。





一方出口である右手の扉を覗いてみると…

おおお、
下りの螺旋階段が見えるじゃないですか!



階段には鳥の糞と羽がびっっっっっっっしり堆積していた。

もう何年も人が入っていない事が伺える。


螺旋階段の左の壁は先程見た右側の入口の湾曲した壁と表裏一体になっている。

画面中央にある柱は八角形の建物を支える八本の柱の内の一本である。

つまりこの八本の柱が塔の最上部まで通し柱になっていて、一層目だけがその周りを瓦屋根の建物で覆ってあるような格好になっているのだ。



階段の構造としてはおそらく上り下りが左右対称(…という表現でいいのかな?)になった会津のさざえ堂のようなケースとは異なり
非対称形の平面と考えられる。

というのも上りの螺旋階段と下りの螺旋階段が8本の柱に内接し、対称にキッチリ組み合わさって二重螺旋を構成しているのであれば画面中央の柱に奥にある厨子の部分には上りの螺旋階段の裏側が見えるはずだから。



柱の上部を見る。





ここから見る限りでは上りの螺旋階段がどこにあるのかがさっぱりわからない。

もしかして上りはハシゴとか…

いやだよ。弘前の二の舞は。でも塔の前にあった説明書きには
「二重螺旋階段を持つ類例の少ない珍しい建造物」とあったし。


狭い覗き窓から見る限りでは上り階段の位置も含めて構造的にわからないことだらけだ。






…というわけで塔の構造のハナシはひとまず棚の上においといて、このキテレツな塔がなぜ出来たのか、という歴史的な側面に目を移す事にしよう。

ここに一冊の本がある。

島原のからゆきさん 倉橋正直 共栄書房

この本によると天如塔を建てたのはこの理性院大師堂の開祖でもある
広田言証という僧侶だ。

1852(嘉永5)年、岡山県に生まれた広田氏は40歳の時に事業に失敗し、大病を患う。それを期に氏は四国巡礼の旅に出る。死を覚悟した旅路であったのだろう。四国八十八ヵ所を4度回り、僧籍を取得する。しかしいつの間にか病気は癒え、
超健康体になってしまった。そこで氏は何か世のために出来る事はなかろうか、と自分探しの旅を続ける。全国の霊場を廻り、九州に渡る。この時点で氏は自分がすべき事を仏が「お告げ」として知らせてくれる、という信念をもって修行し続けたようだ。
雲仙普賢岳で修行の折、縁あって島原に居を定めたのが1895(明治28)年。こうして漂白の人、広田言証は島原に理性院大師堂を開いたのである。

「島原のからゆきさん」によれば、僧籍を取得したものの教義には明るくなく身なりはそれこそ乞食坊主だったという。しかし広田言証を慕って信者は増えていき、島原、長崎辺りでは今弘法と称される様になったという。

    

しかし教団が巨大化していく中でも広田氏には肝心の「お告げ」が降りて来ない。
そこでインドまで行けばお告げが聞こえてくるだろう、という事で今度は
インドの仏跡巡りを考える。

1906(明治39)年日本を出発。ろくな資金も持たない旅である。托鉢で食いつないでインドまで行く、という
電波少年みたいな旅を可能にしたのはある人達の存在が不可欠であった。

それは
「からゆきさん」と呼ばれる女性達であった。

彼女達はアジア各地に渡った出稼ぎの娼婦である。主に島原、天草出身の女性だったという。

広田氏は島原を拠点に活動しているメリットを十二分に発揮してこれらのからゆきさんのいる所へ出向いては現地でなくなった
日本人の施餓鬼供養を行ったという。

香港、ハノイ、サイゴン、バンコク、シンガポール、ビルマと
島原コネクションをフル活用し、インドに近付く広田氏。
その行動力にも驚くが、明治時代にこれだけのコネクションが東南アジアの街に張り巡らされていたというのも驚きだ。

さて、そんなこんなで釈迦入滅の地クシナガラに無事たどり着いた氏は念願の「お告げ」を受ける…ことはなかった。

しかしこの旅で彼は2つの大きな使命を得た。ひとつは旅の帰途ラングーン(現ヤンゴン)の僧侶から賜った
釈迦如来像を日本で安置する事、そしてもうひとつはアジア各地で辛い境遇に身を委ねて望郷の念に駆られて死んでいったからゆきさん達の霊を慰める事だった。

こうして1909(明治42)年2年半の自分探しの旅を終えた中田氏…あ、間違えました…広田氏は2つの使命を果たすべく早速
天如塔の建設に取り掛かったのである。



    

天如塔の周りを囲む玉垣には建設当時の寄進者の氏名が刻まれている。

これらの多くはからゆきさんだという。インドへの旅の途中で出会った各地のからゆきさんとの出会いは氏のインド行きの手助けをしたのみならず、塔の建設資金まで与えてくれた、というわけである。

ベトナム、シンガポール、ビルマ、実際に足を運ばなかったマレーシア、インドネシアからの寄進も多いことがわかる。

仏の声は聞けなかった広田氏だが、
からゆきさん達の声を聞く事で自分のすべき道筋をさだめた訳だから結果、からゆきさん達が仏だった、ということになりましょうか。




さて、天如塔の内部のハナシを棚の上からおろしましょうか。


「島原のからゆきさん」には著者の倉橋氏が天如塔を登った記述がある。それを元に参拝経路を推察してみよう。
まず驚きだったのは、上りの螺旋階段にいたる経路だ。

一旦、
地下に潜ってから上り階段に至るというのである。そこは地獄巡りと呼ばれていて一階の床から1〜2メートル掘り下げてあるというのだ。

先程の入口から覗いた画像をもう一度見てみよう。



この不動明王の前を通り右に折れてすぐ地獄巡りが始まると考えられる。

その後、上階段に転ずる訳だが、その階段は
とてつもなく狭く暗く急勾配だったという。

それはそうだろう。塔高と平面の面積から考えればただでさえ急にならざるを得ない螺旋階段なのに地獄巡りまで造っちゃって高低差が増えちゃったんだから。恐らく↓の上り階段のすぐ右の裏側あたりに段梯子に近い状態で上り階段が取り付いているのだろう。



残念ながら倉橋氏は建築の専門家ではないため内部の具体的な記述が少なく、これ以上の詳細は不明だが、外壁にある小さな灯り採りの窓の位置や一階の下り階段の角度から推察するに登りは相当な急勾配であり、会津のさざえ堂のような2つの等質の螺旋階段が表裏一体に納まっている類の二重螺旋ではなく、
単螺旋の合間に無理矢理急勾配の階段が取り付いているような状態なんだと思う。

もっとも角度の違う螺旋階段同士がひとつの空間に納まっている、という方が造るのにはよっぽどアクロバティックだとは思うのだが。



いずれにせよ
地獄巡り胎内巡り的な要素を取り入れたさざえ堂、というアトラクション的な要素がみっちり詰まった驚愕の塔なのだ。

塔の最上部には
ビルマ渡来の釈迦如来像が安置されており、展望台になっているそうだ。狭く暗く急勾配の上り階段を通過して来るのでここでの開放感は格別かと思われる。まるで事業に失敗し大病を患った広田氏の前半生と信仰に生きインドまで足を伸ばした後半生のコントラストを具現化しているかのようだ。

その後、下り階段は上りに比して楽に降りることが出来るという。
それが↓この階段だ。



こんな面白そうな塔に登れなかったのは返す返すも残念だった。




さて、この天如塔において最大の疑問は何故、東日本にしか存在しない(筈だった)さざえ堂が西日本、しかも二重螺旋の仏塔である会津型のさざえ堂の情報など入ってくるとは考え難い100年前の島原に存在したのか、という点である。そして広田氏はこの建物をさざえ堂として認識していたのだろうか?

あまり世間の信仰トレンドに頓着しなかったであろう広田氏がさざえ堂を知っていたとは考え難い。

氏は西日本を中心に巡礼を続け、僧籍を獲得したというものの、倉橋氏の言葉を借りるなら僧侶としては
インスタントのお坊さんである。

時代も宗派も地域も違う仏堂形式のことをどこで知ったのだろう。今のようにネットで検索してポン、という時代ではない明治末のハナシだ。


唯一の可能性としてインドでのある人物との出会いではなかろうか、と私は考えている。


その人物とは
河口慧海である。

河口慧海といえば日本人で初めてチベットに入境した僧である。
1901(明治34)年にラサに到着後1903(明治36)年に帰国、翌1904(明治37)年西藏旅行記を出版し、再びインドに渡っている。その後1913(大正2)年に再びチベットに入るまで慧海はインドにて仏典や言語の研究学習をしている。

広田言証がインドに入ったのは恐らく1907〜8年頃、そして
ベナレスの河口慧海のところに5日間ほど滞在している。

日本仏教界屈指の仏典マニアはだし坊主の妙な取り合わせだが、同胞の僧侶同士、お互い縁を感じたのかもしれない。
慧海は広田言証にルンビニーへの行き方を教えたり、ベナレスの寺院を案内したという。

その河口慧海、実はさざえ堂発祥の寺、
本所羅漢寺の住職だったのだ。

慧海が住職を務めたのは1890年、この頃羅漢寺にさざえ堂は既になく、本所区緑町に移転していた時期にあたる。


もっとも住職になったものの色々なゴタゴタがあり、翌年には住職を辞めているのだが、当時寺は仮堂であった。
当然、かつて江戸中で話題になった本所羅漢寺のさざえ堂や五百羅漢堂といった奇妙な建物の存在は知っていただろう。
また、三国一の仏教マニアだけに会津のさざえ堂の存在も知っていてもおかしくない、と推察できる。

その慧海を広田氏が訪ねていった。


その時歴史が動いた!ドーン!


…ここからは何の確証もないが、この時に慧海が広田氏に自分が住職を務めた寺にかつてあったさざえ堂の話や会津のさざえ堂の話をしたのではないか、と私は考えている。

その話をヒントに広田氏は島原に戻って天如塔を建てたのではなかろうか。

いや。あくまでも私の勝手な想像だからハナシ半分で聞いて欲しいのだが、慧海と広田氏が会ったのは事実だし、他に広田氏から二重螺旋の仏堂のアイデアが湧いてくる可能性は低いと思うので、あながち無い話ではない…とは思うんですけど。


私の仮説が真実であれば、
天如塔は本家本所さざえ堂直系の隔世遺伝した仏塔である、という事になる。

いずれにせよ今後
さざえ堂を語る上で無視できない存在である事だけは間違いない。




平成13年にはこの天如塔と周囲の玉垣が島原市の有形文化財に指定されている。

現在の状況を鑑みるに早急な対処を願うばかりである。




最初は単なる奇天烈な塔、と思っていたが、ひとりの坊さんの
討ち死に覚悟の捨て身の旅と出会いが生んだ奇跡の結晶だったのである。


そして当然そのベースには島原の悲しい歴史が横たわっている事を忘れてはならないと思う。




船から見る島原の街。その中にポツンと建つ天如塔が見えた。

いつまでも眺めていたかったがすぐに山影に隠れてしまった。



それよりカモメが恐かったです…






情報提供はあやしい城の管理人、D-oneさんです。


2007.12.



追記

地元の方々のご尽力により修復されたようです。

詳しくはこちら↓

理性院大師堂天如塔修復委員会


(2014.05.記)


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