百堂巡り/茨城県


茨城県の旧出島村

平成の大合併によりかすみがうら市と名を変えたが、霞ヶ浦のど真ん中にに突き出た半島状のエリアである。

そんな場所に百堂巡りという素敵な風習があると聞きつけて行ってみましたよ。

最初に説明しておくと、この地方では葬式が終わった後に故人の戒名を書いた短冊状の紙札をあちこちの寺院や小堂、地蔵などに貼ることで死者の霊を弔うという習俗がある。

それが百堂巡りなのだ。


…と、ここまで読んで「はて?どこかで聞いたような…」と気付いた方もおられるかも知れない。

そう、当サイト既報の千葉県で繰り広げられている四十九堂の茨城バージョンなのである!

(四十九堂のレポートはこちら



そんなこんなでまず訪れたのは長福寺




寺とはいえ明治期に焼失して以降、寺としての機能は果たしていないのだが。

境内にあるの巨大な椎の木が有名だ。

↑山門の左にあるこんもりとした部分、コレが一本の木なのである。





山門からして早くも大量のお札がお出迎え。





コレ、全部亡くなった人の供養のための紙札なのだ。




細かい違いはあるが基本的なフォーマットは以下の通り。
























境内の石塔にもたくさんの紙札が貼り付けられている。




燈籠も札がたくさん貼られており、クラゲみたいになっちゃってるぞ。




で、椎の巨樹。出島の椎と呼ばれている。

この巨樹の存在を知ったのは名著「神木探偵」で見たから(必読)。

神木自体の魅力は「神木探偵」を読んでいただくとして、ここでは百堂巡りの札に着目しよう。




巨樹の手前には小さな祠が建っている。




背後から見た神木。

樹齢推定700年。幹回り7m。高さ15mの堂々とした巨樹である。

幹の木肌から異様な迫力と妖気が発せられている。

この樹が生まれたのは700年前、世は鎌倉から室町に移る頃だったのだろうか。

その後人は戦国の世を経て江戸、近代と生き抜き現代に至る。

その歴史の中には教科書や史書にも載らない過ちもあれば寄り道もあっただろう。

樹木とて同じように様々な変遷を辿って来たのではないだろうか。

700年間、瘤も出来れば洞も出来る。無駄な枝もひび割れも出来る。

それら樹木の成長や進化や変化の全てひっくるめた歴史が樹相に現れているからこそ我々は巨樹に惹かれるのではなかろうか。




閑話休題。



祠には紙札が沢山貼られている。




祠の中には弘法大師の石像。




さらに巨木を四角く囲むように沢山の石像が並んでいる。

これは四国八十八カ所のミニ霊場なのだ。

かつて旧出島村では弘法信仰が盛んで、半島全域に四国八十八カ所の写し霊場があった。

その提唱者こそがここ長福寺の住職だったのだ。

つまり四国霊場の写し霊場を作り、さらに境内にもミニミニ霊場を作ってしまった、という訳。

凄いね。





並んでいる石像は四国霊場の本尊ではなく、全て弘法大師だった。






次に訪れたのが、志戸崎の慈眼寺



ここもまた無住の寺のようだ。




寺の入り口に小さな祠があった。

その祠にも百堂巡りの札が貼られていた。




堂内は地蔵の石像が並んでいた。

以前千葉の四十九堂巡りを追加調査した際に紙札は不動明王に関連するお堂や寺に貼って回るというハナシを聞いた。
(詳細は拙著「奉納百景」を読んでね)

しかしここでは地蔵に貼っていくようだ。

この地域を紹介している「出島村の民俗」という本ではこの地域の死者供養の習俗として

「命日から数えて七日目に、初七日あるいは七日明きと言って墓参りをした。また安食地方では『お百度参り』『百札ぶち』といって、たくさんの紙塔婆をつくり、それを地蔵様へはりはか参りをした。」とある。

他にも郷土資料を調べると

「葬式後紙塔婆を作り、地蔵に張った

とか

「お札を百枚作って塔に貼ってお参りをする」

とか

「葬式後、百枚の紙札に戒名を書いて地蔵に貼る

といった記述が見られる。


これらの文章を総合すると以前レポートした千葉の四十九堂参りとは若干様子が違うように思える。

千葉の四十九堂巡りが不動明王信仰をベースにしていたのに対し、茨城の百堂巡りは地蔵信仰がベースにあるようなのだ。





次に向かったのは金剛寺

この周辺では比較的大きな寺院である。



境内の一画にある小さな祠を見てビックリ。




紙札がモッフモフに貼られているではないの!




左の祠には弘法大師、右の祠には地蔵が祀られていた。







そんなこんなで西に移動して深谷の御堂というところに到着。



お堂は少し広めの市道から少し入った三叉路の奥にある。

周囲には古い墓石が並んでおり、元々は墓場だったことを伺わせる。




小さなお堂が建っている。




お堂の前には子安観音と如意輪観音。




弘法大師像も。




お堂の正面には百堂の紙札が貼られている。





内部にはいくつかの仏像があったが、中央の厨子の扉は開いてなかった。




御堂の傍らにあった石像。

双体道祖神かと思ったらこの地方にある夫婦墓の一種なのだとか。

この時、百堂巡りと同時にこの辺りの墓地も見て回ったのだが、このような夫婦墓を何体か見かけた。

聞くところによると対岸の玉造でも見られる石塔だそうな。




目の前は蓮根畑が広がっていた。

霞ケ浦周辺は蓮根の一大産地で(収穫量日本一)、水田と蓮根畑が入り組んでいる。

霞ケ浦の水利を十二分に活かした農業形態だ。





次に訪れたのは法蔵寺

真言宗豊山派のお寺だ。



境内は比較的整備された様子。

ここの百堂巡り札は大日如来がおわす石段のようなところに貼られていた。

将来的にはお地蔵さんがひな壇状に並ぶのだろうか。




その脇にあった卒塔婆建にもどっさりと紙札が。




境内の石仏にも貼られている。

実は先ほどからずーっと気になっている事がある。

それは紙札に記されている日付の事だ。

ほとんどの紙札には戒名の脇に「令和二年八月一日」と書かれている。

これって、どこの家も8月1日にこの札を貼りに巡るのだろうか?

以前訪問した四十九堂巡りの場合は葬式が終わった翌日、あるいは初七日程度に札を貼って回った、というハナシを聞いたし、実際そういう家族も見かけた。

先にも述べた旧出島村の各郷土資料にも百堂巡りのタイミングとしては葬儀翌日、あるいは初七日に紙札を貼りに行く、と記されている。


ではこの八月一日というのはどういう意味なのだろう。

これは想像だが、もしかしたらこの十数年〜数年の間に百堂巡りの時期が変わってしまったのではなかろうか。

かつては葬儀直後に参っていたのが、いつしか八月一日に一律化してしまったのではなかろうか?

何故八月一日なのか?それは八月一日というのがある意味特別な日だからである。

多くの地域では盆の月の朔日であるこの日は来たるべきお盆に備えて墓掃除をする日とされている。

特に新盆を迎える家にとってはより重い意味を持つ日といえよう。


そんな日に新仏を偲び、紙札を貼っていくという行為は従来の意味合いとは違うとはいえ、新仏に対峙するのに相応しい日であると言えよう。

このご時世ゆえ生憎地元の方にインタビューすることが出来なかったので、想像するしかないのだが、恐らく葬儀が終わった翌日に何カ所もお札を貼りに行くこと自体が負担が大きいので、新盆の月の入りの日である八月一日に百堂巡りをするようになったのではなかろうか。

勿論これは私の勝手な想像であって間違っているかもしれない。

現状をご存知の方は是非ともご一報いただきたい。




石仏の傍らには巨大な銀杏の木があった。

いくつもの巨大な気根が垂れ下がっていた。

こういう気根は乳垂ともいい、古くから母乳の出に御利益があるとされている。





お次は南円寺。ここも真言宗。



参道脇にはお釈迦様の一生を刻んだレリーフがズラリと並んでいる。

誕生仏から始まり、出城、苦行、降魔修行、初転法輪、竹林説法、涅槃…と、お釈迦様の名シーンがダイジェストでお届けされている。




その先には大仏さん。

古いものかと思ったら平成16年の建立でした。




境内にはたくさんの弘法大師像が並んでいる。

ここも最初に訪れた長福寺同様、ミニ霊場となっているのだ。



で、肝心の百堂巡りの紙札だが…



綺麗にはがされてました。

年末の大掃除の時期にはがしたのかな。

ただ、その痕跡から察するにここもまた相当な紙札が奉納されているような雰囲気であった。





次は西蔵院地蔵堂



畑が広がる三叉路の近くにあるお堂だ。

道祖神や犬塔婆もそうだが、やはり三叉路というのは民間信仰において特別な意味を持つ場所なのだろう。




小さなお堂の正面に数枚の紙札が貼られていた。




ここにも「百堂巡」「八月一日」といった文言が記された紙札が貼られていた。


…実はこのお堂、別件で前に来たことがある。

その時は百堂巡りの事など知りもしなかったので、紙札が貼ってあったかどうかすら記憶にないのだが、もし百堂巡りの習俗など知らなくてもこんな素敵な光景に遭遇していれば記憶にないはずはない!…よね?



なので、ひょっとしたら先の南円寺同様、紙札が処分された直後に訪れていたのかもしれない。




お堂の前には草むらに埋もれるように石像や五輪塔が点在していた。





次に訪れたのは松学寺

真言宗のお寺ばかり紹介してきたが、ここは曹洞宗のお寺である。



…正直言って、かなり陰鬱な印象。

門柱の前で思わず「うわああ〜」という声が漏れてしまった。

上手く言い表せないのだが、敢えて言わせていただくなら横溝正史の金田一耕助シリーズの映画の冒頭に出てきそうな雰囲気なのである。


この寺には腹帯地蔵という地蔵菩薩がいる。

そのお地蔵様は安産の神として地元では崇められており、今でも深く信仰されているのだという。

江戸時代は山門付近に尼寺があったという。

その頃から婦人に人気の寺院だったのだろう。




今ではトタン葺きの屋根で、かつての寺勢など知る由もないが、それでも立派な寺院だったことは容易に想像出来る。




本堂脇に並ぶ石碑。

ここにも百堂巡りの紙札が貼られている。

薄暗い竹林をバックに並ぶ石碑や石像。

これもまた横溝正史の小説のワンシーンのようだった。









ラストは田村のお薬師さま

半島の付け根であり住所的にも土浦市になっている。



林の中に小さな薬師堂が建っている。








正面には百堂巡りの紙札が貼られている。

完全に調べたわけではないが、この辺りが百堂巡り習俗の最西域かと思われる。




堂内には数体の仏像が一つの厨子に納まっていた。





百堂巡りはこれにて終了。

結論として想像していたよりも広い範囲で行われていたことに驚いた。

更に千葉の四十九堂参りと似たところ、違うところがあり興味深かった。




またこの地域を含む利根川流域には近在の百堂を巡礼する講があったという。

江戸時代にはほぼ無くなってしまったというのだが、現在でも百堂念仏塔という石碑が広範囲に存在しているという。

その習俗との関係性も今後の宿題ですな。






お堂の脇には土葬の墓があった。

遠くを見れば土浦の街が。土葬の墓から見る高層建築は何とも不釣り合いで不思議な気持ちになった。




2021.01.
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